コーヒーと失恋話 連載第2回

物豆奇

 雨がぽつぽつと降りだしたお昼前、西荻窪に溶け込むように佇む純喫茶「物豆奇」に訪れた。

 店内に入ると、いくつもの古時計が飾られているのが目につく。時計は、現在の時刻を指しているものもあれば、デタラメな時刻を指しているものもある。絶えず響き渡るその振り子のカタカタという音は不思議と耳障りにならず気分を落ち着かせてくれる。そんな振り子時計に囲まれながら、その音色に包まれているうちにどれが本当の時刻か分からなくなってくる。

 こちらは学生時代、進路に悩んでいたころに友人と遊びに来たとき座った一番奥にある席。窓のようなガラス戸の向こうに見えるのは現実の景色ではなく、別の世界だった。ここに座ってお茶をしながら、私と友人はもやもやとした現実の世界から少しの間離れることができた。
何年かぶりに訪れた『物豆奇』さん、店内の古時計たちは当時と変わらずに時を刻み続けていた。

店主の山田広政さん

 取材のアポを入れた際、「山田さんの話をお聞きしたい」と言ったら、「僕なんてつまらない人間ですよ、それでも良ければ」と一言。接客中も無駄口を利かずにテキパキ動くクールな印象の山田さんからはどんなお話が聞けるのだろうか。

やっぱり『時間』じゃないかな

 失恋ね……。なにかをきっかけに親しくしていた人と決別することはありますよね。

 僕も「ガクッ」と来たことはありますよ。この人とはもう会えないんだな、これでさよならなんだなって。だけどそんなことがあっても、仕事には行かなくちゃいけないし、日中も部屋に籠っているわけにもいかないでしょ。それに、付き合いはその人だけじゃないんだし、その瞬間は一人になってしまったって思うけど、本当に一人なわけじゃない。

 そのうち時間が過ぎたら落ち込んだ気持ちもなくなっていくんだ。

 だから、どんな辛い別れでもやっぱり一番の薬は「時間」じゃないかな。それしかないよ。別れの瞬間はもう嫌だって、全部放り投げたくなるけれど、それは「瞬間」なんだから。止まらなければ、自分の考えだって変わっていくし、他の人からアドバイスをもらったりしたりね。

その時は、「どうしようどうしよう」って思っても、止まらずにもがいていればそのうち変わっていくんだ。

今、あること自体に価値がある

 この店は、もともと店を作った初代店主から喫茶店経営の知識を知らない僕が受け継いでから40年以上経つんだ。始めた当時は振り子時計が家にあるのは普通だったけど、10年20年経って他の純喫茶もどんどんなくなっていって、振り子時計も珍しいものになり、この店は建っていること自体に価値が出てきた、それが今。店自体は変わらなくても周りが変わっていく。だから、ちょっとやそっとのことに動じずに、堂々としていれば自然とそのうち余裕が出てくるんだよ。時間をかけることが大切なんだ。

 今まで大きいことを考えなかったから続けてこれたのかもね。コーヒーだってせいぜい400円とか500円でしょう。欲を出したら毎日こんなことやっていけないよ。

なくなっちゃったっていい

 このお店を「どうしても辞めないでください」って言ってくれる人もいるけど、僕自身はこの店を「なんとしても守りぬかないといけない」「これを失ったらなにもない」なんて思ってないんだ。僕が動かなくなったら、他の人がやってくれればいいんだしね。

 今は、悪口を言われたら「じゃあ、辞めてやるよ」って言えちゃうくらいの気持ちでいるんだ。いい意味で店にしがみついていないかもね。

物豆奇の店主山田さんに10の質問

Q1)自分のお店の好きなメニューは?
—コーヒー
もともとコーヒーが好きで始めたんだからね

インタビュー時に出してもらったブレンドコーヒー

Q2)店内のいくつもある時計で一番好きなものは?
—斜めになっていて珍しいでしょ。振り子時計は文字盤に開いている二つの穴からネジを巻いて、動かしているんだよ。今の若い人はネジじゃなくて電池で動いてるって思ってるかもしれないけどね

Q3)好きな天気は?
—雨以外

Q4)好きな時間帯は?
—特にないね。毎日が繰り返しだもの

Q5)好きな席は?
—んー、どの席もそれぞれいいから決められないね。遊び心にあふれてるでしょ

Q6)好きな色は?
—青

Q7)好きな音楽は?
—特にこだわりはないけど、クラシックとジャズは聴くよ。お店にはいつも有線を流しているんだ

Q8)時計が同じ時間を指していないのは何故ですか?
—別々の時間を指しているのは止まってしまった時計があるから

Q9)一番印象に残っているお客さんは?
—40年来の常連さん。デザイナーをしている人で今では個展に遊びに行ったりもする仲

Q10)お店を長く続ける秘訣はなんですか?(前回のアール座読書館店主渡辺さんより)
—秘訣?そんなものはないよ。ただ、僕がこれをやるしか才能がなかったからじゃないかな。でも、しいていえば、欲張らないことだと思うよ。この内装も昔から一切変えていないんだ

後記

 取材を終えた後、私が「もう少し、お客さんとしてここにいていいですか」と訊くと、「もちろん」と言った後、何も言わずに取材中に出してもらっていた冷めたコーヒーに温かいコーヒーを付け足してくれた。その2杯目のコーヒーはクールな中にも温厚さが垣間見える山田さんの人柄をそのまま映し出しているように思えた。

 店内にある振り子時計のように店主の山田さんも、ここにくるお客さんも、それぞれの時間を刻一刻と刻み続けている。「普通の人なら定年だけど、店には立ち続けるよ。まだ身体は動くから」と時折優しい笑顔を交えて話してくださった山田さん。私たちの時間は限られている、だけど焦らなくていい。時間は待ってはくれないけれど、絶えず進み流れていくからこそいいのだ。

物豆奇
東京都杉並区西荻北3-12-10
[月~日] 11:30~21:00不定休

インタビュー&文、写真:モモコグミカンパニー