コーヒーと失恋話 連載第3回
荻窪駅北口を出て少し歩いた商店街の通りにひっそりと佇む、『邪宗門』は今年で67年目に入る老舗の純喫茶だ。扉を開けると階段があり、二階が客席となっている。階段を上り、二階席に向かう。心地よいシャンソンの流れる空間にはここでしか味わえないであろう魅惑的な雰囲気が漂っている。
席に座って辺りを眺めると、いくつかの鏡が目に入る。テーブル席にひとつ、二階席へ続く階段にふたつ。そのどれもがぼんやりと白く曇りがかっている。その鏡たちは、店内の風景をぼかしながら映し出している。赤い座席でランプの淡い光に包まれながら注文したコーヒーをゆっくりと待つ。
時折見せる笑顔が素敵で、物腰やわらかな和枝さん。現在91歳にも関わらず一日に何度も階段を上り下りしてお客さんへ注文の品を届けている。そんな一杯だからこそ、一口一口味わって飲もうという気持ちになる。酸味の効いたすっきりとした味わいのコーヒーを飲みながら和枝さんのお話に耳を傾けてみましょう。
雰囲気がいい? 確かに、そうね。お客さんもいい人ばかりで、私のことを気遣って、自分の飲み終わったコーヒーカップを自分で下までもっていく方もいらっしゃるのよ。
こちらがいい雰囲気でいれば、自然といいお客さんが来てくれるわ。人間関係でも一緒、やっぱり、良い人に良い人は寄ってくるものよ。良い人間関係を作りたいならまずは、自分自身がいつも上を向いていないと、そういう人は寄ってこないわ。いい人と付き合いたいなら、まずは自分が一生懸命に勉強しないとね。
長年連れ添った主人が亡くなってからもう20年以上にもなるけど、亡くなってからも私には友達がいたから寂しくなかったわ。
主人は、30代になってからマジックを始めて、それから師匠についてマジックを自分で作って本まで出したのよ。夫のことを知らないマジシャンは世界中でいないくらいだったわよ。ただし、それが“良い”マジシャンだったからね。やっぱり良い人にはいい人が寄ってくるものよ。
3年に一度開催されるマジック大会には30年も主人と一緒に参加してたわ。オリンピックみたいでしょ。そこでマジック仲間に会えるのが嬉しかったわ。私たちは、言葉が通じなくても、マジックでつながることができたの。
主人とは、世界旅行にもいったわ。ヨーロッパとか、ほんとに色んなところにいって、そこでも世界中におともだちができたわ。みんないい人ばっかり。私は世界中に好きな人がたくさんいるの。もう、当時のおともだちも亡くなってしまった方が沢山いるけれど。今の若い人たちは気の毒だと思うわ。人と話しちゃいけないとか、外に出ちゃいけないとか。だけど、人とつながるためにとにかく、なにか自分から始めてみるのは良いことだと思うわ。
人とのコミュニケーションが難しい? 全然難しいことなんてないわよ。人と関わっていないからそう思うだけじゃないかしら。人との関わりがないと相手が何考えてるかわからないでしょう? 人と関わっていないとだんだん相手の気持ちが分からなくなってくるものよ。
自分の殻に閉じこもってばかりいたら、つい人を疑ってしまったりするのよね。構えなくていいの、自然体でいれば自分に見合った人が、近寄ってきてくれるはずよ。
Q1)好きなメニューは?
―ウインナコーヒー、ロシアンコーヒー
Q2)好きな席は?
―階段を上って一番近くにあるテーブル席
ここがスピーカーから流れてくる音が一番いいからだという
Q3)好きな天気は?
―晴れててあったかいのがいいね
Q4)好きな色は?
―赤
Q5)印象に残っているお客さんは?
―昔はやっぱり大学生が多かった印象ね。コーヒーは家では飲めるものではなかったからみんなコーヒーを飲みに喫茶店に行っていたのよ
Q6)好きな音楽は?
―ジャズ
昔はジャズの好きな主人の意向もあり、店内でもジャズを多くかけていたが、お孫さんと一緒に切り盛りしている今はシャンソンもかけるようになったという
Q7)好きなマジックは?
―スライハンド
Q8)友達をつくるコツはありますか?
―んー、困っちゃうわね。身構えないこと。自然とね。あまり意識してつくるものでもないわ
Q9)接客で心掛けていることは?
―相手が自分から話してこないかぎり、お客さんにどんな職業についているとか、そう言ったことはこちらからは訊かないようにしているわ。美味しいコーヒーを提供できるだけで満足だもの
Q10)若々しさの秘訣は?
―やっぱり世界中の人と関わりをもっていたからかしら
店内に置かれている少しくすんだ鏡を覗くと、その不確かさに妙に安心感を憶える。人間関係もきっとこのくらいでちょうどいい。全てが見えていなくても、はっきりしなくても、人とのコミュニケーションは成立するのだろう。すべてを明瞭にする必要なんてない。たった一つでも共通点があれば、人とつながることはできる。言葉が通じなくてもマジック一つで世界中に友達を作ることだってできるのだから。
和枝さんは、視力が年々衰えてきて、お客さんの顔も以前に比べ分かりづらくなってきていると言っていた。それでもお客さんへコーヒーを運び続ける。お客さんが注文してから、一杯ずつ淹れているコーヒー。そのお客さんのために入れたコーヒーをその一人のために大切に運んできてくれる。はっきりと見えていなくても、その一杯でお客さんとつながることができているのだろう。
巧妙なマジックのように人を引き付ける魔力にも似た、不思議な魅力に包まれた荻窪の邪宗門。あなたもぜひそのトリックに一度は魅せられていただきたい。
荻窪 邪宗門
東京都杉並区上荻1-6-11
15時~20時(通常時は22時まで
不定休(基本的に月曜はお休み)
喫煙可
荻窪邪宗門 (jashumon.com)
インタビュー&文、写真:モモコグミカンパニー