ちょっと長めのひとりごと ちょっと長めのひとりごと

うたた寝

「うたた寝」という言葉が好きだ。
 うたた寝は別名、微睡(まどろみ)ともいって、その言葉の通り、少しの間寝るという意味だ。
 学生のころ、私はよく授業中にうたた寝をしていた。夜のがっつりとした睡眠よりも、教室での日中の日差しに包まれながらの短い睡眠は多少の罪悪感もありつつ、なんとも気持ちが良く、贅沢な時間だったと記憶している。
 私が当時、教室後方の窓際の席を好んでいた理由の一つにも、このうたた寝を前提にしていたところがあった。

 うたた寝はある程度の余裕がないとできないものだと思う。
 もし、本当に窮地に立たされていたら、いくら眠かったとしてもうたた寝はしない。
あるときふと、大人になってから、久しくうたた寝をしていないことに気が付き、私は同時にその魅力を再確認することになった。
 何も考えずに、ただ窓枠の景色を眺めながら、だんだんと遠のいていく意識に逆らうことなく身を任せているうちに、意図せず自然と短い眠りにつく。きっと素晴らしい時間だったに違いない。

 ここで私が推したいポイントは、“意図せずに”という点だ。
 世の中は、誰かの意図したことで埋め尽くされているように思う。
 私の毎日の予定も、誰かしらや、私自身の意図によって組み込まれ、何か月も先まで決まっているものもある。
 逆に、“意図されていないこと”は、その意図していることのわずかな隙間を縫うようにおとなしくその時が訪れるのを待っているようなイメージがある。
 うたた寝もその“意図されていないこと”の一つだ。
 毎日に誰かの意図によって組み込まれた授業内容はもう覚えていないのに、意図せずに起きた授業中のうたた寝の心地良い感覚が今でも鮮明に思い出されるのは皮肉だが、これこそが真実なのかもしれない。

 私たちの心の中に感覚として印象が長く残っていくものは、大体が意図せずに起こったことのような気がするのだ。
 意図せずに、他人の発言に大笑いしてしまったり、意図せずに聞こえてきた音楽をいつまでも聞いているように。

 スマートフォンでスケジュールを見てみると、自分の人生は決められていて、その決められた時間に自分の身体をなんとかねじ込んで生きていっているような気持になる。
 しかし、私はここで声を大にして言いたい、
「おい、googleカレンダー!キミの思い通りに進むと思うなよ!」
と。もちろん、googleカレンダーは偉大だ。
 私はgoogleカレンダーがなければ、毎日をさまようのみであろう。
 だから、googleカレンダーにはどうか気を悪くしないでいただきたい。やっぱり声は大にせず、中よりの小にしておこう。

 しかし、これは仕事で埋め尽くされた、あるいはときに空白の、googleカレンダーに軽く睨みをきかせながら私が実際に良く思っていることだ。
 ただ、私が睨んでいるのは、googleカレンダーではなく、予定に飲み込まれそうになっているスマホ画面に映る自分自身なのかもしれない。
何が言いたいのかというと、私はカレンダーありきではなく、まずは人間ありき、身体ありき、心ありき、で毎日を過ごしていきたいということだ。
 そして、意図しないこと、予期せぬことにいちいちびっくりしたり、感動したり、泣いたり、喜んでいきたいのだ。
「意図されたこと:意図していないこと」=「9:1」の形に惑わされずに心に残るその「1」の部分をたいせつに、見過ごさないようにしていきたい。
 だから、明日の予定がブルーだったとしても、明日の色をブルーと自分の中で決めつけて、わざと足取りを重くする必要はない。
 絵の具パレット上での予期せぬ調合で、美しい色が出来上がるように、“ブルーな日”でも、予期せぬ感動や、綺麗な景色が待ち受けているかもしれないのだ。