ちょっと長めのひとりごと ちょっと長めのひとりごと

水中

 私はたまに心がざわついたとき、自分が水中にいることを想像する。海の中というより、閉館後の水族館の水槽の中に入り込んだイメージだ。目を瞑って、そこに自分がいることを想像する。そうすると、とても落ち着くのだ。私は実際に水に入るのはあまり好きではないし、水族館を見て回るのも趣味ではない。けれど、水の中に自分がいるのを想像することは好きだ。
 息を深く吸い込んで、目を瞑って想像する。だんだんと外部の音もはっきりとは聞こえなくなる。目は瞑ったまま、瞼の裏で微かに感じるその場の明るみだけをただぼんやりと感じてみる。

 水中には空気がない。息ができない。話すこともできない。だから当然、空気を読む必要がない。誰かの表情をうかがう必要もないし、だまっていても機嫌が悪いと思われることもない。思えば、水槽の中で泳ぐ魚をみて、機嫌が悪そうだ、良さそうだ、と思ったことがない。地上の犬や猫などの動物のように、目も口もはっきりあるものが多いのに、表情が上手く読み取れないのは、魚は空気を読む必要がないからかもしれない。魚と目が合った、という経験もしたこともない気がする。興味津々に水槽の中を眺める私たちに対し、彼らはこちらにはいつも興味がなさそうにしているように見える。水中で暮らす彼らに比べたら、私たちの方が目新しいものを沢山もっているというのに、考えてみれば、おかしな話だ。
 水中では、私たちがやっていることはほぼ台無しになってしまう。この文章を書いているパソコンも使い物にならなくなるし、これから食べようとしている食パンもふやけてしまう。水中を泳ぐ魚たちは、物を持たずに生身の身体だけで日々行動している。それに比べ空気中では、持たなくてはいけないものが多すぎる。
 小学生のとき、教室で飼っていたメダカが、産んだ卵を水槽の中に漂わせているのを見て「なんと無責任な」と子供ながらに思った。しかし、きっと水中には特に責任というものもないのだろう。魚たちは流れにその身を任せてゆらぎながら泳ぐのみだ。

 「ゆらぐ」と言えば、水泳教室に通っていたころ、背泳ぎをしながら、辺りのゆらいだ景色をみるのが好きだった。水中ではすべての景色はあいまいで歪んで見える。そのはっきりしないあいまいさにも安心する。すべてがゆらいでいたら、「普通」や「基準」というものはなくなるからだ。みんな歪んでいるのが普通だから、なにかと競争する必要もなくなるし、上も下もなくなる。
 ただ、水中で空気がないことでひとつ困るのは、笑えないことだ。普通がないから、普通の基準を外れた“おかしい”ことがない。それはきっと、“可笑しい”(=笑える)こともないということだろう。そう考えると、普段私が疎ましく思っている場の“空気”と“普通”といった基準が笑いの重要な成分になっているのかもしれない。
 私は笑うことが好きだ。日々の生活の中で、笑いの要素が消え去ればきっと生きることは味気なくなってしまう。餌を見つけた瞬間、魚たちがわざわざエラ呼吸の機能しない空気中にまで必死に口をだしながら食らいつくのは、笑いの要素のない、味気ない毎日を送っているからかもしれない。笑いがなければたまに供給される餌が生活の中で唯一の癒しとなるだろう。
 「笑い」の代償として、「空気」と「普通」が存在すると考えれば、それに付随して起こる多少の困難も黙って受け入れようという気になる。とにかく憧れの水中生活を送るために魚に転身することはあきらめよう。人間のまま、たまに少しの間水中に逃げ込むくらいにしておく方がよさそうだ。