ちょっと長めのひとりごと ちょっと長めのひとりごと

『推し、燃ゆ』を読んで

 宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』を読んで考えたことを書こうと思う。本書を読んだのは何か月も前のことだが、私は自分を推してくれる人がいる立場だから、ドキドキしながらページをめくっていったのを覚えている。
 主人公の高校生の女の子は、愛する推しのアイドルに対し「病めるときも健やかなるときも推しを推す」というスタンスをとり、推しが発言する言葉の一つ一つを大切に書き留めているほどの熱烈なファンだ。しかし、その推しが炎上事件を起こすことになり……と話は続いていく。
 主人公は、煩わしく上手くいかない自身の人生から逃げこむように推しに人生をささげている。彼女の人生は推しありきで成り立っていて、推しの一挙一同に感情を揺さぶられ、自分の人生の芯の部分もそこに存在する。つまり、推しを推すこと自体が、主人公の人生の根幹となっているともいえる。

 「推し」はファンと同じ生身の身体をもった人間で、同じ地球上に存在するのに、友達のように度々会うことはできないし、そこには一方的な金銭のやり取りも発生する。それなのに、物理的に距離の近い友達や身近な人間よりも推しの方が心理的に近く感じている人は多いのではないだろうか。考えてみれば、不思議なものだ。
 しかし、友達のように会えないからこそ、物理的な距離感があるからこそ、そこには裏切りだったり、喧嘩だったり、そういう人間関係でありがちな煩わしい問題が発生することがない。だからこそ、推していられる。
 そう思っていた。
 が、『推し、燃ゆ』の主人公は “逃げ場”ともなっているであろう「推す人生」の中でも、痛みを伴い、煩わしい問題にも直面していく。

 SNS等が発達した現代で、アイドルを幻想や偶像として崇めるのは少し無理があると私は思う。今や、アイドルが与える側で、ファンは受け手という一方的な矢印も少し不自然に感じる。推しとファンの距離が近くなったことによって、ファンは推しに関する情報を多く受け取れるようになった。そこには良いものもあれば、時に悪いものもあるだろう。そうなると、ファンも推しに対して夢ばかりみていられなくなる。もちろん悪い情報が出回った時、アイドル自身はもちろん、ファンも、推しを“推し続ける”ために、本書の主人公のように乗り越えなくてはいけない痛みや問題を抱えなければいけない。
 アイドルは永遠ではない、という事実ひとつとっても、アイドルを推すことには一種の切なさがある。
 きっと表舞台に立つ推される側がそうであるように、「推す人生」も決して甘くはない。
 私自身、活動をしていくうえで身近な誰よりも自分を推してくれている人たちの存在に後押しされたり、心強く思うことがある。その訳が、少しわかった気がした。