ちょっと長めのひとりごと ちょっと長めのひとりごと

人間として生きたい

 私は最近、そろそろ人間として生きたいと思っている。
 「人間として生きたいってどういうこと? 変なの!! じゃあ、あなたは人間ではないのか?!」
 そう言われれば、私はどこからどう見ても人間です。そう、私は一見、人間。
 けれど、私が人間らしいかと、人間として生きているかは別だ、と思っている。

 昔から、人になにか与えられる自分でいなければ自分に価値はないとどこかで感じていた。例えば、小学生のときよく友達の登下校で会話に困らないように、話題を捻り出していわゆる台本を作ってから家を出たりした。周りの人が楽しそうにしている姿は何より嬉しかったし、自分の価値そのもののようで安心した。しかし、金曜の夜に家に帰ってくると、何かの糸がキレて、わけもなく号泣することもあった。友達は多いけど、一人で暗い部屋でじっとしてるのが一番落ち着いた。そんな表向きは明るくも、窮屈な子ども時代を過ごしていた。
 大人になっても隣に知り合いがいると、常に様子を伺ってしまうので、長距離の移動を人と過ごすのが苦手だ。例えば、「泊まりがけで何人かでバーベキュー行くんだけどモモコも来ない? 友達が県外に別荘持ってて、そこまでも車でみんなで行こう!」なんて言われたら、バーベキューの時にはエネルギー切れになっているだろう。ああ、想像するだけで恐ろしい。

 今も常に気を張っているわけではないが、根本はやっぱり変わっていない。仕事では、見えない期待に応えられていない自分に落ち込むことも多い。私みたいな中途半端でわかりづらい人間は、簡単に商品というか、エンタメにはなりきれないが、エンタメの世界に身を置いているという矛盾がある。そして、公私共にプレッシャーに負けたり、型にハマりきれなかった時、自分は欠けていると感じる。商品としても。人間としても。
 しかし、立ち止まって考える。こんな自分は人間か? なんだか人間ぽくない。私はテレビ番組でもYouTube でもない。好感度や、視聴率が悪かったからって、人生を終わらせられるわけでもないだろう。なのに私は、自分が人間であることを否定しながら生き続けてしまったみたいだ。

 今年の六月、大手芸能事務所から独立した。それには色々なワケがあるわけだが、特に人が食いつくようなことでも無いから詳しくは話さない。環境を変えたことで、目につくものも変わった。そして、うまいこと言うだけが全てじゃない。パッケージ化されているものが全てじゃない。世間に認められているものばかりが全てではない。そんな当たり前のことにやっと、少しだけ実感が湧くようになってきた。
 薄汚れた心、中途半端な自分、欠陥している自分、誰のためでもない、なんでもない一日とか、きっとそんなものが人間で、私はそれを受け入れることができたら、もっと人間になれるし、もっと満ちることができるだろう。というかむしろ、そんなものにこそ、人間の愛しさというものが隠れているはずだ。
 だから、ここら辺でいつからか自分で自分にはめてきてしまった枠を一つずつ外してみたい。上手くできるかわからないけれど。
 何が言いたいのかというと、まあ、とにかく人間として生まれたからにはせっかくだったら、人間でありたい。人間として生きたい、ということだ。

 そういう意味で、今回自費出版で出した詩集「氷の溶ける音」は、その枠組みを外してくれる重要なピースになったと思う。詩集のテーマは、生きる意味だったり、小さな叫びに耳を傾けることであり、不完全な人間の部分を抽出したような言葉を書き残したものになっている。
 タイトル「氷の溶ける音」は、氷を人間の一生に喩えてつけたものだ。氷は、そのまま綺麗に溶けていくこともあるが、途中で割れて歪な形で鋭さをもつこともある。その鋭さで近づいたものに傷つけられたり、傷ついたり、ちょうどよく型が合って隣にいてくれる人が見つかったり。だけど、それもまたいずれ形を変えうまく型がハマらなくなってしまうこともあるし、終いには全部溶けてなくなってしまう。そんなことも含めて、氷は人間の一生に似ていると思ったのだ。そして、全部なくなってしまうのなら、今の形を残しておこうと考えた。書いた後は、小説などのように特に達成感があったわけでもなければ、自分の中で何かスッキリとした感覚があったわけでもなかった。だけど、とても意味のあるものになったと感じている。
 この詩集の中の言葉は、誰かを傷つけることも、あたたかく包み込むことも、なにも伝えられないこともあるはずだ。だけど、それでいい。この言葉たちはエンタメでも商品でもない。どこかの、特別でもないただの煩わしい人間の心。その時にしかない、歪な形。私の表現したかったのはそんなものだ。