ちょっと長めのひとりごと ちょっと長めのひとりごと

涙の価値と拭い方

 私は人前で涙を流すことが滅多にない。
 最後に公の場で涙を流したのは去年の6月29日だったが、それ以降も今日までそんな機会はなかった。
 きっと、これから先もよっぽどのことがない限り無いだろうと思う。
 なぜか。
 それは私が極端に冷め切った人間だとか、そういうことよりも、私自身が自分の涙にあまり価値を感じていないからかもしれない。
 人の涙は、人の心を揺さぶる。
 ひとりで泣いていたら、次の日目が少し腫れるくらいだ。
 だけど、目の前に人がいるとなると話が変わってくる。
 私の涙には、人の心をかき乱すくらいの価値があるだろうか。
 今まで、何度かカメラの前、ステージの前、お客さんとの対面で涙を流してしまいそうになったことはあるけれど、果たして自分の涙にはそれほど価値があるものなのか?
 そんな風に問いかけてぐっと堪えてきたように思う。

 表に出たものが全て、だからこそ自分の涙に責任を持ちたい。
 そんな信念のようなものを持っていた。
 だけど最近、それは信念なんてものじゃなく、ある種の不安や弱さがあったのではないかと考えた。
 私は、自分の涙の拭い方がわからなかった。自分が泣いた後の世界に責任を持てなかった。だから泣くことができない。今思うと、こっちの考え方のほうがしっくりくる。
 去年の今日の私は、もう本当に最後だからその後の世界に責任は持たなくてもいいと思ったのだろうか。
 あるいは、あの時の自分はその涙を2023年6月30日以降の私に託したのかもしれない。

 泣いてどうにかしてもらおうとするのが赤ん坊なら、自分の涙を自分で拭うのが大人なのだと思う。
 では、あの日の涙はどうすれば拭うことができるのか。
 涙を涙で終わらせないためには、やっぱりその後の景色を自分の目で見続けることしかないんだと思う。大袈裟に言ったら、生きる、しかない。
 そうしていくうちに、涙は乾いていき、価値のあるものになっていく。

 2023年6月29日以降の、あの時と同じようで違う世界を私は生きていて、また色合いの違う涙を流すこともある。
悔しかった分、悲しかった分まだ歩みを進めて、自分に違う景色を見せてあげる。それが、自分の涙を自分で拭える大人なのだろう。
 涙を流すことって、大人になればなる程かっこいいことなのかも。
 じゃあ、あともうちょっとだけ冒険してみようかな、なんて思ったりする。