誰かが観てくれている、誰かのために歌う、誰かのために……。
2023年、私の毎日にはたくさんの“誰か”がいた。
解散とともに“誰か”の目も一層多様になった。
ステージという主戦場がなくなり、“等身大”が全てではなくなり、決められた単色の自分に縛られることもなくなった。
本を出した。テレビに出た。歌を出した。誰かは「嬉しい」といい、誰かは「意外だ」と目を丸くし、誰かは「嫌い」だという。
私の中の“誰か”も好き勝手に色んなことを言ってきた。
「夢が叶った」「頑張った」「あんまり上手くいかなかったね」「自分では上手くいったと思ったけど、実際は全然だったな」とか。
一つの画面は、たくさんの人の目や思惑で作り上げられていることを実感した。
私の“等身大”なんてあまり役に立たず、むしろ邪魔に思えた。
“誰か”は、ひとまとまりにできるわけではないから、その一人一人に視線を合わせていたら目が回ってしまう。
自転車に乗っているときによそ見ばかりしていたら、転んでしまうし、ブレーキをかけながら無理やりペダルを踏み込んでも、転倒してしまうだろう。
色んな物言いを「うるさいうるさい」と聞く耳を持たず、暴走してみたって誰もついて来れなくなってしまう。
一体私は、誰の目に焦点を合わせてどうやって与えられた自転車を乗りこなしていけばいいのか、いつも考えていた。
全てを汲み取って、上手く自転車を漕がなければ。そう思うほど、ペダルを踏む力は弱くなり私の目は少しずつ濁っていった。
だけど、そんな2023年下半期の自分に伝えたい。
本当に頼れるのは、誰かの目よりも自分の足元だ、と。
どの道が、どの色が私に似合うのかは、“誰か”が決めるかもしれない。
だけど、その自転車を漕げるのは自分だけ。
“誰か”や出会ったもの、過去、全てを汲み取ろうと必死になるより、もっと自由に漕いでみたい。
進んでいけば出会う景色はどんどん変わる。道を変えればペダルの漕ぎ方の正解も変わってくるだろう。
留まりたいと思う瞬間はゆっくりと、逃げたいと思うなら速度を速めて通り過ぎていってしまえばいい。
迷ったら一度、自転車を降りてみたっていい。
人生なんて、時間なんて一瞬の積み重ね。どんなに怖いことも傷つくことも一瞬の出来事に過ぎない。景色と一緒ですぐに通り過ぎていってしまう。いちいち、心を重ねすぎていたらすり減っていってしまう。
出会った全ての色を汲み取っていたら、私の色はどんどん濁っていく。
汚い色でも、この世界にいる以上、何色かになった方がマシというのも正論だ。
だけど、私は足元を見ながら、“美しい”“鮮やか”だと思える色に等身大を重ねられる道を選んでいきたい。そんな意思は持ち合わせていたいのだ。
もし、どれもくすんで見えるなら、自分のまっさらな筆を持ち出して、また物語を描いていけばいいんだから。
2023年、たくさんの感謝を込めて。
良いお年を。